無観客試合でのリーグ戦開幕など、夏から秋にかけて、競技によっては再開の動きが見られはじめた大学スポーツ。昨年2019年、国内外で大きな活躍が目立ち、ひときわ存在感を見せた本学レスリング部もまた他のクラブ同様、今年は大きく活動を制限されました。
10月15日~16日、本年度初めて開催される学生大会「全日本大学グレコローマン選手権」に出場するレスリング部ですが、選手たち、指導者はコロナ禍で何を思い、どう過ごしたのでしょうか。自身も二度のオリンピック出場経験を持つ和田貴広監督(体育学部准教授)に、現役時代の活躍や当時の国士舘のことも含めてお話をうかがいました。
<2020年9月16日取材?多摩キャンパス レスリング場>
──取材前に練習を拝見しました。練習は以前のように戻ってきていますか?
4月の緊急事態宣言発令とともに、寮に住む部員の7割以上が実家に帰省し全国に散らばっていきました。それから数ヶ月が経ち、残り数人を除いてようやく揃ってきています。とはいえ、引き続きこのレスリング場にはOBも含めて部員以外は立入禁止ですし、感染症対策に関しては今でも徹底しています。練習はもともと毎日、午前と午後の2回ありましたが、コロナ禍以降はずっと午前中90分のみです。足りない部分は個々の選手に、自主トレなど主体的に練習してもらっています。
──緊急事態宣言の発令当初、特に気を配っていたことは?
学内への立ち入りが禁止されていたので、ここにある器具を多摩キャンパス近くにあるレスリング部の寮にいくつか持っていき、そこで各々でトレーニングしてもらいました。当時部員に伝えたのは「今はとにかく寮から感染者を出さないことを最優先に」ということでした。大学が定めたガイドラインを遵守するために、部員と何度も話し合いを重ねました。主将の阿部選手(阿部敏弥選手?体育4年)をはじめ10人弱の部員が寮に残りましたが、極力外出を控えること、スーパーなどに出かける時でも複数人で外出しないこと、毎日の食事も業者の方にお願いし弁当を寮に持ってきていただき各自で食べることなど、感染者を出さないよう徹底しました。
──和田監督は本学体育学部在学中すでにレスリング部で頭角を現していましたが、監督ご自身がレスリングに出会った経緯は?
子どもの頃から格闘技が好きで、小学2年生からスポーツ少年団で柔道を習い始めました。中学3年生までは熱心に取り組んでいたのですが、当時私は身体が大きくないほうで、なかなか自分と同じような体重の選手と対戦する機会がなかったのです。そんな中、地元?鹿児島出身の先輩がレスリングで活躍しているのを見て、自分に向いているのではと思ったのがきっかけです。柔道に比べるとレスリングは、より細かく体重別の階級があるのも大きな理由です。高校1年生から始めたレスリングですが、柔道での基礎があったためか、3年生の時にインターハイで団体優勝、国体でも個人優勝することができました。
──国士舘大学に進学する決め手となったのは何ですか?
高校のOBに、当時の朝倉利夫監督(現?レスリング部部長)がいらっしゃって、本学にお誘いいただいたのです。世界チャンピオンでもある朝倉先生にお誘いいただいたということが一番大きかったですね。ただ、練習の厳しさは想像できたので、最初のうちは正直、どうしようという思いもありました。ですが、レスリングを続ける以上は、たとえ厳しくとも自分を高めてくれる環境に飛び込もうと思うようになりました。「よし、国士舘大学に進学してレスリングをやろう」と決意してからは一切迷いませんでした。
──当時の国士舘大学の印象は?
私が大学に入学したのは1990年。その頃はまだ多摩キャンパスの開設前で、体育学部が世田谷キャンパスにあった最後の時代です。寮は世田谷の松陰寮で、2年生までは寮からすぐそばの世田谷キャンパスで過ごしていました。当時のレスリング場は、10号館の一番下にあったのです。今でこそ大学の敷地が広く、ある程度競技ごとに学生たちのすみ分けがありますが、もちろん当時は体育系の学生は基本的に世田谷キャンパス。柔道部や剣道部、空手道部の部員たちが、それぞれの稽古着を着てキャンパス内を行き来しているのが日常でした。寮でも部活の垣根を越えて横のつながりがあり、たくさんの他競技の学生たちと仲良くしていましたね。そして私が3年生になるタイミングで体育学部は多摩に移転しました。キャンパス開設当時から、ここ体育館棟2階にレスリング場がありましたので、それ以来私の拠点であり続けています。
──学部生時代のレスリングの実績は?
私は性格上、一度やると決めた以上はとことんやりぬくことだけを考えます。国士舘在学中は当時の滝山将剛部長(元?体育学部教授)、朝倉監督の指導のもと、日々猛練習をこなし結果もついていきました。3年生から4年生にかけて、アジア選手権で銀メダルになり、全日本選手権で優勝することができました。大学卒業後は体育学部の助手として国士舘に残り、競技を続けて世界に出ていきました。そして大学を卒業した半年後、広島県で開催されたアジア大会で優勝することができたのです。この優勝はとても大きかったです。日本でアジア大会があるということ、日本人の金メダル獲得がいつにもまして求められているのを感じていました。そこで優勝することを第一の目標に掲げ、全てを注ぎ込んできたので感慨もひとしおでした。
──順調に世界でも実績を積み上げていったんですね。
壁にぶつかったことももちろんあります。優勝したアジア大会の前のことですが、確かに当時、私は国内では勝てていました。しかし実際に世界に出てみると、世界選手権で一回戦負けしたり、ワールドカップで惨敗したりということが続いたのです。その時に、何かを変えなければ前進できないという思いを強く持ちました。その頃タイミング良く、ナショナルチームが世界チャンピオンのロシア人コーチ(セルゲイ?ベログラゾフ氏)を招聘したのです。その方の指導によって、世界での戦い方を学びました。ナショナルチームの合宿以外の時は国士舘に来てくださり、マンツーマンで指導してくれたのです。そのロシア人コーチの指導が広島アジア大会優勝につながったと思っています。
──どんなトレーニング内容だったのですか?
その方はまず、合宿をするたびに「今回の合宿の目的は何か」をはっきりと掲げ、参加選手全員に繰り返し伝えて沁み込ませます。そして、目的を達成するために合理的な練習を、合理的な量だけしっかりとこなします。一日の練習時間自体は2時間程度で、決して長くはありません。しかし目的を明確にしたその指導が私には新鮮で、とても集中できました。私だけでなく、当時の代表選手は軒並み結果を出せるようになったのです。ただそれも、私の場合それまでにレスリングの大事な部分を、精神的な面も含めて身に付けていたからこそ生きた指導となったのです。国内で結果を残し、世界を相手に戦えるようになったからこそ「何かを変えなければ」という疑問を抱いていたからです。
- 恩師の朝倉部長(右)と
- 練習の最後に部員たちに指示を送る
──1996年のアトランタ五輪はいかがでしたか?
アジア大会優勝などの結果を残している状態で迎えたので、「金メダルしかない」という気持ちでした。私自身もそうですし、周囲の方々の期待もそうでしたね。五輪出場が決まった時も、嬉しいというよりはほっとした気持ちのほうが強かったです。そして大会当日が近づくにつれ、「勝ちたい」という気持ちから、いつの間にか「勝たなきゃいけない」という重圧に変わっていました。それもありアトランタでは4位入賞に終わりましたが、その時の悔しい気持ちや反省点は、今指導する際に大いに役立っています。
──現役引退後は?
シドニー五輪に出場した2000年に引退し、その年のうちからナショナルチームの専任コーチとして指導にあたるようになりました。それから8年間は代表コーチとして、アテネ、北京五輪を経験しました。
──国士舘に指導者として戻ってきたのはいつ?
2008年北京五輪の後です。引き続き代表チームのコーチをしながら、本学の専任コーチも兼任するようになったのです。その後2013年に本学に教員として入り、監督に就任しました。初めは代表チームと大学生では競技レベルの差があり、試行錯誤の連続でした。当然ながら、代表チームでの指導をそのまま流用すればいいというわけではありません。同じレスリング部の中でも、モチベーションや経験などが一人一人違う中で、どのレベルの選手にも国士舘に来てもらった以上は実力をつけてほしいという強い思いもありました。
──ここ最近、特に2019年はレスリング部の活躍が目立ちました。
もちろん良い年もあれば悪い年もありますが、昨年度は多くの本学選手が国内外の大会で優勝することができました。昨年9月の世界ジュニア選手権で優勝した阿部選手が今年は主将となり、困難な状況下にあってもチームがまとまっていましたね。今、選手たちはかなり主体的になってくれています。コロナ禍にあっては私と主将で話し合い、地元に帰った選手たちに呼びかけ、自宅やその周辺で自主トレしているところを動画に収め、専用のLINEグループで共有してモチベーションを高め合っていました。私は大まかなアイディアを出しただけで、あとは選手たちが日本全国各地から「こんな環境だけど、その中で今自分はできることをやっている、こんな練習をやっている」という思いを込めて動画を送ってくれていました。
──指導する際に、特に気をつけていることは?
選手たちを信用して、任せるところは任せる姿勢に徹することです。選手たちには、いつも自分で考えることを重んじるよう伝えています。レスリングは十人十色です。自分の体形や身体能力、理想やこだわりを持って、自分がなりたい選手像に近づく努力をしてほしいです。各選手のスタイルを変えようとは思っていません。自分のレスリングは基本的には自分で考えるように、考える力がつくようにと意識しています。
──選手に望むことは?
競技スポーツですので、勝つことが目的です。勝つことにこだわってチャンピオンを目指し、最終的にはオリンピックという舞台を意識してほしい。大学に来てレスリングをやるだけの環境がある以上は、トライしてほしいのです。これは私の性格であり、信条でもあるのですが「結果が出るかどうかは分からない。分からないけどトライしないであきらめることは私にはできない」のです。私自身の現役時代もそうでした。今の選手たちにも、やるんだったら中途半端なところで満足せずに、とことんトライしてほしいな、と。その上で「どうすれば勝てるのか」を主体的に考えること。自分のレスリングを徹底的に分析して、自分のレスリングスタイルを創り上げていってほしいです。
──国士舘アスリートに今、伝えたいことはありますか。
今年度はほとんどの大会が中止になってしまい、特に4年生の辛さははかり知れません。ですが、このことをどうこう言ってみても始まらないですし、コロナ禍の影響に関してはほかの大学も条件は同じです。今後の人生においても、生きていれば思い通りにならないことや納得のいかないこと、目標がなくなってしまうというのは普通にあり得ること。今回の出来事も自分を成長させてくれる糧だと前向きに考えて、次の目標に進んでいってもらいたいなと思います。
プロフィール
名前:和田 貴広(わだ?たかひろ)
国士舘大学レスリング部監督
生年月日:1971年11月16日生まれ(48歳)
出身地:鹿児島県
出身校:鹿児島商工高(現?樟南高校)
◆現役時代のおもな戦績:
1994年広島アジア大会金メダル、1995年世界選手権銀メダル、1996年アジア選手権金メダル、全日本選手権優勝5回、1996年アトランタ五輪4位入賞ほか
◆指導者としてのオリンピック出場歴:
2004アテネ五輪(コーチ)、2008北京五輪(コーチ)、2016年リオ五輪(監督)
◆2020年度 レスリング部出場大会の結果
?吉村選手が初の銅メダル 全日本大学グレコローマン選手権の結果(10月15~16日)
https://www.kokushikan.ac.jp/spokon/news/details_15164.html
?諏訪間選手が65kg級で準優勝 全日本大学選手権(11月7~8日)
https://www.kokushikan.ac.jp/spokon/news/details_15240.html
◆過去のインタビュー記事はこちらから
「目指せ!国士舘から世界へ」バックナンバー:
https://www.kokushikan.ac.jp/spokon/news/details_13190.html